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ヨガの目的を認識する


ヨガの聖典を読むと冒頭に

-心の作用を死滅することが、ヨーガである-

と書いてあります。初めてヨガ・スートラを読んだのが二十歳の時。

その冒頭の一文を読んだ時は「いやいや、ヨガってストレッチ体操じゃないのー」

「気持ちよく伸びて癒されるものじゃないのー」と一人でクエスチョンマークを頭に浮かべていました。

その意味を理解するのに何年もかかりましが、大きな転機は世界的なヨガ指導者である

チャック・ミラー先生のTTを受講した時でした。もし先生に出会っていなかったら僕のヨガの価値観は全く違うものになっていたと思います。

ある日チャック先生にスタジオで

「先生、僕は難しいポーズを習得してもっと前に進みたいです。ポーズのコツを教えてください!!」と言いました。

「君にとって前に進むというのはどういう意味なのかな?もし、ポーズを習得していくことを前進だととらえているなら、それは非常に危険だよ。考え直してみなさい」

「・・・。」

「私にはそんなに多くのポーズは必要ないと思うけどね」

当時の僕がここで理解出来ていればよかったのですが、僕は先生のありがたいお言葉を無視しポーズの習得に野望をむき出しにします。

「誰よりも難しいポーズを取るんだ!!」←これを結構長い事やりました。

(いい感じの岩があればすぐにこんなことばっかりしてました笑)

そして、行き着いた先に感じたこと。

ポーズの出来を求めるとすごい虚無感と劣等感がやってくる。

難しいポーズが出来ても誰も褒めてくれませんし(すごいねーくらい言ってもらえます笑)

本音を言えば、僕がどれだけ難しいポーズが出来るかなんてことは誰も興味がないのです。

しかし、当の本人は認めて欲しいから必死に頑張り、そのうちヨガが自分の為ではなく人に認めてもらうための道具となり、やればやるほど辛いものとなりました。

その上、出来ないポーズが出てくると才能ないのかなーと劣等感を感じる始末。

そうしてヨガを嫌いになりかけた時、ふとチャック先生やヨガ・スートラの言葉を思い出しました。

「心の作用を死滅することが、ヨーガである」

「多くのポーズは必要ない」